欲しいものがある。

作品でも、プロダクトでも、ソースコードでも、ライブラリでも、建築でも、何でもいい。世の中で使われていて、「これを作った」と自信を持って言えるもの。

今それがない、という感覚がある。もしかしたら、ずっとなかったのかもしれない。

Mercariで巨大なものに触れた

Mercariにいた頃、何百万人が使うプロダクトに関わった。大きな意思決定をして、大きな機能をリリースした。数字は動いた。

でもそれは「自分が作ったもの」だったか、と問われると、正直に言えばそうとは言い切れない。チームが作ったものだ。会社が作ったものだ。僕は重要な一部だったかもしれないけれど、「これは俺が作った」と言える感覚とは少し違った。

建築家で言えば、大きなゼネコンのプロジェクトマネージャーのような役割だった。現場を動かし、工程を管理し、竣工を迎える。でも設計図に、自分の名前はない。

残るものを作った人たちのことを考える

LinuxはTorvaldsが1991年に書いた。今も何十億台のデバイスで動いている。

Gitも彼が2週間で作った。世界中のコードがその上で生きている。

RubyはMatzが「プログラマーが楽しめる言語」という美学で作った。

建築だと、安藤忠雄の光の教会は1989年に建てられた。今も人々が訪れる。数十年後も訪れると思う。

これらに共通するのは——作った人の名前が作品に刻まれていて、時代を超えて使われていることだ。Torvaldsがいなければ現代のインターネットは違う形をしていた。それが、その人の「作ったもの」として世の中に残っている。

「また作りたい」というより、「初めて欲しい」

開発をやめようと思った時期があった。

振り返ると、疲れていたのは「開発そのもの」ではなかったと思う。「世の中に残るものを、自分が作った」という感覚を持てないまま、作り続けることへの疲労だったのかもしれない。

EnablerDAOを始めてからは、ずっと自分の手で書いている。AIとパートナーを組みながら、複数のプロダクトを動かしている。それは確かに楽しい。

でも「これだ」という感覚には、まだ届いていない気がしている。

だから今思っていることは「またやりたい」というよりも——**「初めてそれを欲しいと思った」**に近い。Mercari時代も含めて、これまでの自分が本当の意味でそれを欲していたかどうか、わからない。今初めて、腹の底から欲しいと思っている。

完全に納得がいく、ということ

「完全に納得がいく」という言葉を使いたい。

「いいものを作った」ではなく、「これは自分のものだ」という感覚。作品に自分が宿っている感覚。誰かに「これ誰が作ったんですか」と聞かれた時に、「僕です」と即答できる確かさ。

建築は、それが可視化されやすい。光の教会に立てば、安藤忠雄の思想が空間として感じられる。彼の手が触れたものが目の前にある。

ソフトウェアでも同じことはできると思う。コードの美しさでも、設計の哲学でも、インターフェースの感触でも——使った人が「このプロダクト、作った人の思想が感じられる」と思える何かが宿っているはずだ。

それを作りたい。

人との関係も、変わった

作るものへの感覚が変わるのと同時に、人との関係も変わった気がしている。

以前は仕事のつながりがほとんどだった。同じ会社、同じ業界、同じ目標のために集まった人たち。それが縁の入口だった。

今は違う。もっと自由に、幅が広がっている。

そしてもう一つ正直に言うと——昔は「賢くて嫌なやつですら」尊敬していた。頭が切れて、結果を出す人間であれば、性格なんて関係ないと思っていた。むしろ「そういうもんだ」と思っていた。

もしかしたら、自分がそういう人間だったのかもしれない。

でも最近は、賢いだけでは尊敬できない自分がいる。

それよりも——**一緒にいて楽しいか。いいやつか。正直か。素直か。自分を曝け出せるか。**そっちの方がずっと重要だと思うようになった。

そしてたぶん、これが正解なんだと思う。能力は手段だ。どんな人間として生きるかが、本質だ。「賢くて嫌なやつ」が作ったプロダクトより、「一緒にいて楽しいやつ」が作ったプロダクトの方が、長く愛されることが多い。作るものと、作る人間は、繋がっている。

建築でも同じことが言える気がする。安藤忠雄の建物が愛されるのは、彼の美学と生き方が作品に宿っているからだ。

Solunaというプロジェクト

「残るものを作りたい」という欲求が具体的な形になったものの一つが、Solunaだ。

北海道・弟子屈の自然の中に、建築家が設計した宿泊施設を作っている。犬、サウナ、柔術、自然——自分が本当に好きなものだけを組み合わせた場所。それを共に作り、使う人たちのコミュニティ。→ solun.art

ソフトウェアは消えうる。サーバーを止めれば終わる。でも建物は残る。土地は残る。そこで起きた体験の記憶は、人の中に残る。

もう一つ、Solunaには技術的な側面もある。デバイスとプロトコルだ。フェス会場に100台並べると、その空間にいる全員が同じスピーカーになる。群衆が楽器になる。soluna://というプロトコルで、デバイスが設定なしに繋がる。

物理的な建築と、ソフトウェアのプロトコルと、人のコミュニティが重なっている。そのどれもが「残るもの」になりうる。

これを自分が作ったと言える日が来たら、それは本物だと思う。

それが楽しい

不思議なことに、この欲望を自覚してから、開発が楽しくなった。

「売れるものを作ろう」「ユーザーを獲得しよう」という目標とは少し違う動機で手を動かしている。**「10年後も誰かが使っているものを、今日作っている」**という感覚で書いたコードは、なぜか品質が違う。丁寧になる。設計を考える。

建築家が「100年後も人が住む家を建てる」という意識で仕事をするように。

完全に納得がいくものができるかどうかはわからない。でもその方向に向かって手を動かしていることは、確かに楽しい。それだけで、今は十分だと思っている。